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アイイ Ailly, Pierre d'
(1350 頃-1420. 8. 9)
 
フランスの司教, 枢機卿, 神学者. 教会大分裂 (1378-1417) の終結に大きな影響を与えた教会政治家. ラテン語風に, ペトルス・デ・アリアコ (Petrus de Alliaco) とも呼ばれる.
 
【生涯】北フランスのコンピエーニュ (Compiègne) に生まれる. 1363-64 年に, 当時唯名論の拠点であったナヴァール学寮の給費生としてパリ大学に入学. 1368 年に学芸学士となったあと神学部に進んで頭角を現し, 通常の最低修業年限より 4 年早く, 1381 年に神学博士の学位を得た. この間, 大学では 1372 年にフランス人同郷団の学生監に選ばれ, 12 年後には出身学寮の学寮長となり, その指導下にジェルソンやクレマンジュ (Clémange) のニコラウス (Nicolaus, 1363 頃-1437 頃) らの学者を輩出して, この学寮をソルボンヌ学寮と並ぶ人文研究の拠点に成長させ, 1389 年にはついにパリ大学の大学監に就任するに至った.
 
 他方で彼は, 教会の行政と政治面にも深く関与するようになり, 1381 年にノアイヨン (Noyon) の聖堂参事会員, 1389 年にフランス王シャルル 6 世 (Charles VI, 在位 1380-1422) の聴罪司祭と施物分配係, 1391 年にはカンブレ教会の助祭長となり, そのほかにも多数の聖職禄を得た. さらにアヴィニョンの (対立) 教皇ベネディクトゥス 13 世の好意を得て, 1395 年にはル・ピュイの司教に, 1397 年にはより重要なカンブレの司教に任命され, 1411 年には (対立) 教皇ヨアンネス 23 世から枢機卿にまで任ぜられるに至った.
 
 彼の生涯の主要関心事は, 1378 年以来の西欧の教会大分裂の終結問題にあった. ドイツ国王の支持するローマの教皇に対して, パリ大学はフランス国王の圧力のもとに最初からアヴィニョン教皇を支持していたが, 1380 年に国王が変わると立場を変えて, 分裂終結のために公会議の召集に賛成した. アイイも国王宮廷で 「公会議による道」 (〔ラ〕 via concilii) を弁護した. その後アイイおよびパリ大学は意見を変えて, 対立教皇同士に同時辞任を求める 「退位の道」 (via concessionis) を主張し始め, 国王宮廷もこれに同意して, アヴィニョンのベネディクトゥス 13 世教皇に退位を強いたが不成功に終わったので, 1398 年フランス側は同教皇への服従を撤回した. アイイ自身は, その後も同教皇に好意をもち続け, 1406 年ローマ側の教皇がグレゴリウス 12 世に変わると, フランス王はなおも二人の教皇間の妥協の試みを彼に命じたが, これも不成功に終わった. 事態の解決は公会議によるほかにないことが明らかとなるに及んで, ついに両教皇側から 17 名の枢機卿が 1409 年ピサに集合し (ピサ教会会議), 両教皇を共に不在のまま異端者として廃位宣言し, 新たにアレクサンデル 5 世を教皇に選出し, アイイもこれを支持した. しかしこの方式も 2 教皇が退位を拒んだので, 3 教皇の鼎立を招いたのみに終わったため, ドイツのジギスムント皇帝の主唱とアレクサンデル 5 世の跡を継いだヨアンネス 23 世の召集により, 1414 年にコンスタンツで教会大分裂の終結と教会改革および異端克服のための公会議が開かれた (コンスタンツ公会議). この公会議は相対立する 3 教皇の廃位を決めて, 1417 年に教皇マルティヌス 5 世を選出し, さらにジャン・プティ (Jean Petit, 1360 頃-1411) の暴君殺害容認説や J. フスの教説を異端として断罪したが, この間アイイは一貫して重要な役割を演じた. 公会議終了後, 彼は新教皇の名によりアヴィニョンに派遣され, その地で没した.
 
【思想と著作】彼は学問上の方法論においては R. ベーコンから, 哲学および神学上の根本思想はオッカムから大きな影響を受けている. 神については, その存在と唯一性は哲学的には明白に論証しうるものではなく, 確からしいものとしてのみ想定されうるとし, 道徳については何ものもそれ自体では罪ではなく, 神がそれを禁じるときに罪になると主張している. 教会論においては, 普遍教会のみが不可謬であり, 個別教会はローマ教会であっても誤りうるし, 教皇も同様であり, 教皇に優先する公会議も不可謬ではないと考えている. さらに, 司教と司祭の裁治権の源はキリストにあって教皇にはなく, 教皇が教会の頭であるというのは, キリストの役務者の筆頭者の意味だとしている. このような見解は, ルターらの宗教改革者たちに採用されて発展し, ガリカニスムにも大きな影響力を与えることになった.
 
 彼の残した著作は, 哲学, 神学, 聖書釈義, 聖人伝から物理学, 地理学, 天文学に至る広範囲の 170 編以上にのぼり, その発表形態も論考, 小冊子, 書簡, 詩文, 説教など多彩である. 最も重要なものは 1414 年の 『教会改革論考』 (Tractatus de reformatione ecclesiae) であり, そこで述べられた思想は大部分がコンスタンツ公会議の教令中に取り入れられた. また地球球体説について書かれた 『世界の像』 (Imago mundi, 1410) がコロンブスに示唆を与え, 新大陸発見に貢献したことはよく知られている.
 
【著作】
Tractatus et sermones, 1484 頃.
E. Brun, ed., trans., Imago Mundi, 3 v., 1930-31.
【文献】
キ人 1.
DHGE 1: 154-65.
DMA 1: 108-109.
DThC 1: 642-54.
ODCC2 372-73.
P. Tschackert, Peter von Ailli (Gotha 1877).
L. Salembier, Petrus de Alliaco (Lille 1886).
Id., Le cardinal Pierre d'Ailly, chancelier de l'Université de Paris, évêque du Puy et de Cambrai (Tourcoing 1932).
F. Oakley, The Political Thought of d'Ailly, Yale Historical Publications, Miscellany, 81 (New Haven 1964).
P. Glorieux, “L'œuvre littéraire de Pierre d'Ailly: Remaques et précisions,” MSR 22 (1965) 61-78.
A. E. Bernstein, Pierre d'Ailly and the Blanchard Affaire: University and Chancellor of Paris at the Beginning of the Great Schism, Studies in Medieval and Reformation Thought, 24 (Leiden 1978).
(河井田研朗)



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