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アヴィケンナ Avicenna
(980-1037)
 
イスラム世界を代表する大学者. 西欧においてもその哲学, 医学上の著作で高い評価を得ている.
 
【生涯】西欧世界でアヴィケンナという名で知られるイブン・シーナー, 正確にはアブー・アリー・フサイン・イブン・アブドッラー・イブン・シーナー (Abū ‘Alī al-外字usayn ibn ‘Abd Allah ibn Sīnā) は, ブハラ (現ウズベク共和国中部) の近郊アフシャナ (Afshana) で生まれている. 父親はサーマーン朝の高官であったが, 幼少の頃より際立った才能を示したアヴィケンナに英才教育を行った. その結果 18 歳の折には, この早熟な少年は文法, クルアーン (コーラン) 学, 法学, 神学, 哲学, 幾何学, 自然学, 医学等にわたる百科全書的教養を身に着けていた.
 
 17 歳でサーマーン朝の医師となった彼は, 王朝の図書館で勉学を続けると同時に, 貴顕の地位を楽しんでいる. 当時すでに政情不安定なイスラム世界にあって, 彼もしばしば主君を変えたが, ハマダーン (Hamadān) の王朝では宰相に任ぜられ, 激職にありながら旺盛な著述活動を行っている. 後にイスファハーン (Esfahān) の王朝に鞍替えした彼は, 主君とハマダーン遠征を共にするが, 途中で病を得, 57 歳で他界している.
 
【著作と思想】マフダウィー (Yahya Mahdavi, 1908-2000) が作成した著作目録によれば 242 にも及ぶ作品を書いたアヴィケンナの関心領域は, 極めて多面にわたっている. しかし西欧世界に大きな影響を与えたのは, 『医学典範』 という医学書と, 『治癒の書』 をはじめとする多くの哲学的著作である.
 
 アヴィケンナの形而上学は, 存在論と関わりをもっており, そこで中心的な地位を占めているのは, 存在とそれに関するあらゆる区別の研究である. 彼の存在論は二つの基本的区別から成り立っているが, 第一はものの本質あるいは構成要素に関する, それが何であるか (〔ア〕 māhīya) に関わっており, 第二は当のものの存在に関わっている. アヴィケンナによれば, ものの存在はその本質に付与されるが, 本質あるいはその構成要素に現実性を付与するのは存在である. このような観点から彼は, 本質構成要素は精神によって抽象された存在論的限定にほかならず, 存在こそ基本的であるとしている. このような分析は, 後のラテン・スコラ学者たちにも受け入れられた存在の三つの区別, 不可能なもの (mumtani外字), 可能なもの (mumkin), 必然的なもの (wājib) という根本的区別と, それに基づく独創的な存在論へと展開されていく.
 
 同時に彼の形而上学の特性を形作っているのは, 宇宙論と密接な関わりをもつ認識論である. 天使的階層の継起的な溢出というプロティノスの図式を用いながらも, その問題を可能性, 偶有性の観点から解釈する彼は, 宇宙生成の過程を, 一者から一が生ずるのみという原理と, 創造作用は知解作用を通じて行われるという考えで説明している. その際, 重要な役割を演ずるのは叡知体であるが, 月下の世界で基本的な機能を果たす第 10 叡知体は, ある被造物が創り出される際にその存在を可能にするための形相を溢出するゆえに, 形相の付与者 (wāhib-s-suwar) と呼ばれる. これは能動知性 (‘aql fa‘‘āl) とも呼ばれる知性であり, 人間の魂はここから発しており, この知性の照明 ('ishrāq) は, 認識の形相を, それに向かう適性を獲得した魂の形相に投影する. この能動知性を, アフロディシアスのアレクサンドロス (Alexandros, 2 世紀後半-3 世紀前半) やアウグスティヌス学派がしたように神の観念と同一視せず, それをテミスティオス, トマス・アクイナスとは反対に人間知性から切り離され, その外にあるとした点に彼の独自な位置がある. そしてこの立場は, 西欧におけるラテン・アヴィケンナ主義の衰退と関わりなく, イスラム世界, とりわけイラン・シーア派の思想界で発展的に継承されていく.
 
【文献】
H. コルバン 『イスラーム哲学史』 黒田壽郎, 柏木英彦訳 (岩波書店 1974): H. Corbin, Histoire de la philosophie islamique (Paris 1964).
S. H. ナスル 『イスラームの哲学者たち』 黒田壽郎, 柏木英彦訳 (岩波書店 1975): S. H. Nasr, Three Muslim Sages (Cambridge 1964).
(黒田壽郎)



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