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あく 悪
〔ヘ〕 רָעַע ,רַע, raʽ, rāʽaʽ, 〔ギ〕 κακια, πονηρια, kakia, ponēria, 〔ラ〕 malum, 〔英〕 evil, 〔独〕 Böse, 〔仏〕 mal
 
【問題提起】キリスト教神学の観点からは, 悪とは, ある善の欠如あるいはそのような善の欠如をもつ存在であるにはちがいないが, それ以上に, 「不法の秘密の力」 (〔ラ〕 mysterium iniquitatis, 2 テサ 2: 7) として, 罪と苦しみの根源の問題と重複する. 悪は存在する. 世界と人間の内面に存在し, 苦しみを与える. 神が全能であり愛であるならば, 人間が絶えず直面し, 解決不可能な物理的・身体的あるいは倫理的な悪はどこに由来し, なぜ存在を許されるのであろうかという神義論の問題が起こってくる. さらに悪は人間の自由意志との関連で論じられる. キリスト教信仰は創造主・神に対する信仰である. キリスト教神学にとって, 悪は神の創造した世界においてなぜ起こることが許されるのか, 善を選ぶよう造られた人間の意志がなぜ悪を選び空虚 (〔独〕 Nichtigkeit) に自分を帰してしまう悪を行うのか, さらにそのことが神の救済の秩序のなかでどのような意味をもつのか, 救済史は悪の不条理を克服することができるのだろうかということが問題になる.
 
 悪は人類の進歩にもかかわらず, いやその進歩に比例するようにして, 今日の世界で増大し, 一層その根を深めている. 悪を合理的に説明したり, 解釈することはできない. このような状況のなかでキリスト教神学は創造と救済 (救い) に基づく楽観主義的立場を貫くことができるであろうか. キリスト教の教会は (現代) 社会に対して, 絶えず悪を克服して前進するように呼びかけている. しかしそれは効果的であろうか. もし悪の背後にある暗黒が無限に深いものであるのならば, 教会の宣教の根拠はどこにあるのであろうか.
 
【聖書】〔旧約〕 旧約聖書では悪の問題は創造と救いのテーマに結びつけられている. 人間を破滅に導く悪と諸々の道徳的・倫理的悪との間には本質的な関わりがあるとみられている. 創世記の冒頭で, 神は創造に際してまず光を造り出し, 暗黒と区別し, 光を良しとされたと記述されている. 人は創造の後, 神の祝福と全被造物の統治の委託を受けている (創 1: 27-30). 神の創造の行為は各日ごとに 「良し」 とされ, 肯定され, 第 6 日目, 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった. 見よ, それは極めて良かった」 と記されている (七十人訳参照). 創造の業の終わりの休息の第 7 日目に, 祝福と聖別が全被造界に決定的に与えられている.
 
 創世記 3-11 章の物語では, このような原始状態の完全な調和をもっていた世界が, いかにしてその秩序を喪失したかが記述されている. 神の像として造られた人間は自由意志を与えられ, それによって被造物を統括して, さらに人間の根源的単位である男女の調和を守り, 自らを律すべきであったにもかかわらず, 神の意志によって決められた掟を破ったため, 秩序が乱されたというのである. こうして最初の人間の物語として, 創世記は, 人間の罪によって, 祝福と聖別を受けた被造界に悪のすべての種類が出現するようになったと考えている.
 
 したがって世界はもともと善であったが, 今や人間は世界のなかに悪が存在することを知るようになる. 堕罪の物語において, 最初の罪によって人間の本性が歪められ, 人類の最初の一組の男女の神に対する負い目の意識が, 神に対する憎しみに基づく悪 (意) となり, それが人間の意志を歪め, 正しく物事を見分けることを困難にして, 人間性を悪性化し, 以後, 悪が世界にますます広まる原因になる (→原罪). ノアの洪水の直前, 「主は, 地上に人の悪が増し, 常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって, 地上に人を造ったことを後悔し, 心を痛められた. 主は言われた. 『わたしは人を創造したが, これを地上からぬぐい去ろう. 人だけでなく, 家畜も這うものも空の鳥も. わたしはこれらを造ったことを後悔する.』 しかし, ノアは主の好意を得た」 (創 6: 5-8) と書かれている.
 
創造の物語には, 教父たち, 中世の神学者らによって比喩的解釈が施されたが, 今日の聖書学の立場からも, それが史実ではなく, いわゆる始原論的神話 (→始源論) であるとされ, この見解は一般に受け入れられている. 例えば, K. バルトは, この物語を原伝説 (〔独〕 Ursage) として, 人間についての真理を語る物語であると考えている. この物語は, イスラエルの歴史を語る前の人類一般の出生の背景説明として根源的歴史といえる.
 
 悪は人間にとって解きがたい疑問であると同時に, つまずきである. 創世記の物語を編集するに際して, イスラエルの民族はその周辺文明世界がもっていた神話を素材として用いた. しかし宇宙開闢, 人類起源に関する周辺文明世界の神話に比較するならば, 創世記の物語は唯一神信仰の見地からそれらの神話的素材を非神話化し, 人間を中心に置いて考え, 宇宙論的背景は最小限度に抑え, 歴史として捉えている. 堕罪の物語のなかで, この世界のすべての悪の起源が人祖における神と人間との間の正しい関係 (人間の神に対する正しい態度) の破壊, 不義にあるとされるが, その結果はまず労苦, 死である (創 3: 16-19). さらにそれはカインアベルの物語にあるように, 不和, 戦い, 殺害, 休息のない状態をもたらし (創 4 章), ノアの洪水の物語におけるように, それは全世界の破滅につながっている (創 7 章). ここに人間の不義に起源をもつ悪が人間社会の秩序における悪として混乱をもたらすばかりでなく, ついには宇宙の破壊にまで至ることが暗示されている. しかし世界は 「主の好意を得た」 ことによって滅亡を免れる.
 
 創造の物語にみられる非神話化の推進原理は旧約聖書の神とイスラエルの民との間の契約の考え方であろう. 創造は神と神によって造られた被造物, その中心の人間との間の関係を基にしている. 洪水の後に, 神はノアといわゆる自然契約を結ぶ. 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい. 人が心に思うことは, 幼いときから悪いのだ. わたしは, この度したように生き物をことごとく打つことは, 二度とすまい. 地の続くかぎり, 種蒔きも刈り入れも, 寒さも暑さも, 夏も冬も, 昼も夜も, やむことはない」 (創 8: 21-22). このように, ノアの洪水の後の契約はいわば再度の創造である. 非常に人間的に描かれている根底には, 神の創造の意志の超越性と一貫性が暗示されている. それは人間によって醸し出された悪と混乱を乗り越え, 創造の際の善を貫くものである.
 
 創世記のなかには, 創造主・神に対する信頼とともに, 人間の心から出る悪と人類の間の関係, および世界との関わりで人間が直面する悪が神への罪として現れることに対する現実主義的な見方がみられる. バベルの塔の物語では人類間の反目, 争い, 不和の原因が人間の傲慢にあることが暗示されている (創 11: 1-9). ソドムとゴモラの物語は, 人間の道徳的悪に対する罰として, 神が天変地異を使うと述べている (創 18-19 章). エサウヤコブの物語は, それぞれ悪と善を象徴する人物の兄弟の反目の原型である. 創世記を締めくくるヨセフ物語は, 神の約束とそれに反目する人間の葛藤を描いている. 人間の間の反目, 裏切りは神との関係における不義と関わりがある.
 
 預言者文学は, カナンの豊穰な土地で土着の神々の信仰に汚染した選民に対してヤウェ信仰への回帰を迫るものであった. 「お前たちは悪を耕し, 不正を刈り入れ, 欺きの実を食べた. ……どよめきがお前の民に向かって起こり, 砦はすべて破壊される. それは……母も子らも打ち殺したあの戦の日のようである. ベテルよ, お前たちの甚だしい悪のゆえに, 同じことがお前にも起こる. 夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」 (ホセ 10: 13-15). 「わが民はかたくなにわたしに背いている. たとえ彼らが天に向かって叫んでも, 助け起こされることは決してない」 (ホセ 11: 7).
 
 旧約聖書では悪は, 偶像礼拝の結果起こって広まると考えられていた (申 31: 16-29; 士 2: 11-13; 9: 56; エレ 1: 14-16; 44: 7-27; エゼ 7: 4). しかし苦しみ, 痛み, 病気などが直ちにその人の犯した罪に帰せられえないと考えられていたことも事実である. ヨブは 「無垢な正しい人で, 神を畏れ, 悪を避けて生きていた」 (ヨブ 1: 1) にもかかわらず, (サタンによって) 撃たれた人間である. そのうえ, 彼の友人たちは彼を非難する. ヨブに病気, 苦しみ, 友人たちの非難の形で与えられた悪は試みであり, 神の善と正義が被造物の論理を超えていることを示すためのものである. なぜ正しい人間が悪と不幸とを被るかということについての神の答えが, 創造論的見地から出されているのは興味ある事柄であろう. 神は世界と人類の歴史を通してその正義を実現する神である. しかし神の意図は人知を超える神秘なものなのである.
 
 悪に対して神は創造主・唯一の神として自らを対置する. 唯一性の観点から, 神は悪を許すことはできない. 神と悪との間には絶対的排除律が働く. それは悪が神を排除したり, 克服することではない. むしろ, 悪は神によってすでに否定されたものである. 「あなたは, 決して逆らう者を喜ぶ神ではありません. 悪人は御もとに宿ることを許されず, 誇り高い者は御目に向かって立つことができず, 悪を行う者はすべて憎まれます」 (詩 5: 5-6). 「悪事を謀る者のことでいら立つな. 不正を行う者をうらやむな. 彼らは草のように瞬く間に枯れる. 青草のようにすぐにしおれる」 「悪事を謀る者は断たれ, 主に望みをおく人は, 地を継ぐ」 (詩 37: 1-2, 9). 悪についての判断は人間によらず, 神による (創 38: 7; 王上 14: 22; イザ 5: 20; ミカ 3: 2).
 
 神に反対するすべての行為と人間は悪であり, その破壊性は, 共同体全体を破滅の危険にさらすから, 抹殺されなければならない (申 17: 7; 19: 19). 最初の罪によって悪への傾向があっても, 人間は善悪の区別ができ, それによって生命あるいは死かが決せられる (申 30: 15; 詩 34: 15; シラ 15: 13-17). それゆえに, 「主は悪を行う者に御顔を向け, その名の記念を地上から絶たれる」 「主に逆らう者は災いに遭えば命を失い, 主に従う人を憎む者は罪に定められる」 (詩 34: 17, 22). 「主を愛する人は悪を憎む. 主の慈しみに生きる人の魂を主は守り, 神に逆らう者の手から助け出してくださる」 (詩 97: 10). このように一連の詩編は神が正しい者の保証であり, 必ず悪から助け出されることが述べられているが (「主に従う人には災いが重なるが, 主はそのすべてから救い出してくださる」 詩 34: 20), 主に従う人間とは 「打ち砕かれた心」 (34: 19) をもつ者である. ここにエレミヤ書 15: 15-18 とともに, 預言者文学の人間観が要約されているといえよう.
 
 ヨブ記を背景としてこの人間観を分析すれば, 「悪の苦悩」 の根拠が神の掌中にある神秘であって, 神と人間の思いの間の違いがはっきりする. 悪についての考え方は, 創造とイスラエルの民の離反, 救済史, 終末論との関連で, 虐げられた貧しい人々が真のイスラエルの民であり, 神の嗣業を継ぐとする考え方, さらにイスラエルの罪の償いとして外見的に打ち捨てられた姿をとり, 皆からさげすまれる神の僕の考え方につながっていく.
 
 正義, 知恵知恵文学のなかで神への畏れと結びつけて考えられ, 悪は神を畏れない者の行動と考えられるようになる. こうして悪は知恵に対立する愚かさであるとみなされる (コヘ 7: 25). 箴言では, 知恵とは 「正義と裁きと公平に目覚める」 (1: 3) ことであり, 悪はこれを守らない無軌道である. 知恵と悪 (愚) は二つの道である. 「神に逆らう者の道を歩くな. 悪事をはたらく者の道を進むな」. 「神に従う人の道は輝き出る光, 進むほどに光は増し, 真昼の輝きとなる. 神に逆らう者の道は闇に閉ざされ, 何につまずいても, 知ることはない」 (4: 14, 18-19). コヘレトの言葉には, 善人, 悪人, この世のすべてが空のむなしさに帰するとする 「空」 の思想がある. しかし悪人がいかに栄え, 神の処罰が行われないように思われても, 「わたしには分かっている. 神を畏れる人は, 畏れるからこそ幸福になり, 悪人は神を畏れないから, 長生きできず, 影のようなもので, 決して幸福にはなれない」 (8: 12-13). 箴言には 「主を畏れ, 悪を避けよ」 (3: 7), 「主を畏れることは, 悪を憎むこと」 (8: 13), 「悪しき者は, その悪によって倒される」 (協会訳 11: 5), 「主を畏れれば悪を避けることができる」 (16: 6) などの考え方がみられる. シラ書では, 忍耐, 自制, 誠実, 父母に対する務めなどとともに貧しい人々に対する配慮が知恵ある者・正しい人間の行動であることが述べられているが, 神への畏れは神への信頼に結びつけられている. 悪が神から出るのではなく, 人間の意志に起源をもち, 身に起こる不幸は知恵ある者と正しい人間にとっての試練であることが強調されている. 「主にこそ, [主を畏れる人]は信頼しているから. 主を畏れる人の魂は幸いである」 (34: 16-17). 同時にシラ書では, アダムの死が代表する, 人間にもたらされる悪の惨めさが歌われている. しかしそれは神に対する畏れによって克服される (40 章). 神への畏れは初原の楽園の原始状態に譬えられている.
 
 旧約聖書の文書のなかで悪が神に対立するものと考えられるようになるのは後期の文書においてである (代上 21: 1. これに対してサムエル記上 16:14, 下 24: 1, ヨブ記では悪・サタンは神によって派遣されたものである). 死海文書では光の霊と暗黒の霊の対立がはっきりと描かれている. 死海文書が二つの霊の起源を神に帰しているのに対して, フィロンは善の起源を神に, 悪の起源を人間に帰している. 悪はフィロンにとって神に対立する現実であるが, 人間は善を選ぶ能力をもっている.
 
 〔新約〕 新約聖書には以上に似た善悪についての二元論的見方が認められるが, 悪に善と同じ力が帰せられているわけではない. さらに, 悪の起源が神でないことがはっきりと述べられている.
 
共観福音書において, 悪は霊的存在 (現実) として考えられ, 悪霊, 汚れた霊, それらの背後に勢力をもつ人格的存在 (現実), すなわちサタンあるいは悪魔が, 神から派遣されたキリストに戦いを挑んでいるという構図が考えられている. 福音書は, このような悪の勢力がキリストの十字架と復活を通して完全に打ち破られたとする考え方から振り返ってイエスの宣教を眺めている. イエスの登場によって, 神 (善) と悪との戦いは決定的な段階に達した. この考え方は共観福音書にはっきりと現れている. マルコ福音書の冒頭で引用され, まず洗礼者ヨハネに直接関係するものとして引用されたイザヤ書の言葉によって, この雰囲気は暗示されるが, イエスの宣教の第一声, 「時は満ちた」 (〔ギ〕 peplērōtai, 時は縮んで迫っているの意, マコ 1: 15) は神と悪の戦いが最終の決定的段階に来たと考えられていたことを示している. 共観福音書, 特にマルコでは 「人の子」 と 「神の国」 についての考え方が悪との戦いの背景になっている. 復活の出来事から振り返ってみられているため, 善と悪のこの最後の戦いは, 決定的に神の勝利に終わることが想定されている. こうしてイエスは悪に対する勝利者として受難の道に向かうのである. マルコ福音書の記者は, イエスが病者や身体の不自由な人々から悪霊を追い出すことによって彼らを解放し, 自然の法則を超越した存在であることを示し, 真の意味で悪の勢力と真剣に戦う人物としてイエスを描いている. 受難と十字架の出来事は最終的な段階への準備の戦いを集約するものであった. 自分の運命と復活に関するイエスのはっきりとした予告に対するペトロの反応に対して, イエスが 「サタン, 引き下がれ」 (マコ 8: 33) という言葉をもってきつく叱責するのは, このためである.
 
 イエスをヒーローとする悪の勢力との神の戦いのドラマは, 共観福音書において二つの宇宙的勢力の間の戦いの終局としても描かれている. マルコ福音書のイエスの死に関する簡潔な記述にはすでに宇宙の異変がみられるが (15: 33-40), マタイ福音書では義人たちの体の復活の話が付け加えられている (27: 52-53). 受難物語は, イエス自身による 「人の子」 の再臨最後の審判に関する預言によって導入されている (マコ 13: 24-27; マタ 24: 29-31; ルカ 21: 25-28). 善と悪の戦いと神の決定的勝利は宇宙全体に及ぶ黙示的影響をもたらす. イエス自身の宣教は, このような終末論的・黙示的様相と心理的雰囲気のなかでの切迫感のうちに行われた悪の勢力との戦いであった. 山上の説教主の祈りは以上の雰囲気における切迫感をもって受け取られるべきである. イエスにおいて現れた神は, 本来創造によって善である宇宙のなかに生まれた悪の勢力と戦い, 勝利し, その創造の意図を貫く, 創造の神である. このことは, マタイ福音書のなかの一連の 「神 (天) の国」 についてのイエスの譬え話のなかで暗示されているが, 特に毒麦の譬え話 (13: 24-30, 36-43) は世の終わりにおける神の審判の勝利を予告している. 人間はこの烈しい戦いのなかでイエスとともに善である神を選ぶか, 悪の勢力につくかのいずれかの選択を行わざるをえない. 共観福音書のなかでは, 物語の進行を通して, イエスと律法学者, ファリサイ派との対立関係の間に群集と弟子たちがイエスの業と説教による宣教に対して敵対するか, 受け入れるかの結論を出さなければならないように描かれている. こうして, イエスの敵のなかに悪がますます現れて, 受難に向かうようになっている (マタ 12: 39; 16: 4; 22: 18 等). 福音を一度受け入れた人間に対しても, 悪の勢力 (汚れた霊) が彼を再び引き離して, 状態を一層悪化させることが警告されている (マタ 12: 43-45; ルカ 11: 24-26). このようにして, 共観福音書では, 悪は倫理的な意味で神に敵対する行動, 関係であり, イエスは, 自分を通して現れた神の意志に目をつぶり反対する人々を悪人と呼んだのであり (例えばマタ 7: 11; 12: 39; 16: 4; ルカ 11: 29), これに対して神だけが善 (マコ 10: 18) である. それは神の完全性の現れであり (マタ 5: 43-48), 「悪人にも善人にも太陽を昇らせ, 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」 (マタ 5: 45) 創造の愛から発出するのである.
 
 パウロによれば, 人間はキリストの出現以前は罪の影響を受け 「不義によって真理の働きを妨げる」, 神の怒りの対象であった (ロマ 1: 18-23). 「彼らは神を認めようとしなかったので, 神は彼らを無価値な思いに渡され, そのため, 彼らはしてはならないことをするようになりました. あらゆる不義, 悪, むさぼり, 悪意に満ち, ねたみ, 殺意, 不和, 欺き, 邪念にあふれ, 陰口を言い, 人をそしり, 神を憎み, 人を悔り, 高慢であり, 大言を吐き, 悪事をたくらみ, 親に逆らい, 無知, 不誠実, 無情, 無慈悲です. 彼らは, このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら, 自分でそれを行うだけではなく, 他人の同じ行為をも是認しています」 (ロマ 1: 28-32. コロ 1: 21; 2 テモ 3: 13 も参照). 悪はパウロによって罪とさらに死に結びつけられ, 福音, 真理, 永遠の生命に対立するもの, 律法のもとの古い人間, 「肉的」 存在に固有なものであり, 一方キリストの十字架と復活の秩序のもとの霊的存在である新しい人間は, 本来キリスト以前の人間の絶望的状態から解放されていると考えられた. 「すべて悪を行う者には, ユダヤ人はもとよりギリシア人にも, 苦しみと悩みが下り, すべて善を行う者には, ユダヤ人はもとよりギリシア人にも, 栄光と誉れと平和が与えられます」 (ロマ 2: 9-10). 善を行いうる力と善を行う結果は, 神との正しい関係, つまりである. 神との正しい関係の要請のもとにすべての人間に対しての審判が行われる. 神との正しい関係, 義なしには, 人間は善を行いえず, 善は恩恵による神の無償の贈物であるから, 善の実践は信仰に結びつけられる (3: 30-31). しかしパウロは信仰者の場合にも, その内面で二つの掟が戦っていることを認める.
 
 善についてのパウロの考え方はキリスト中心的な救済論のなかに位置づけられる. キリストの十字架と復活によって初めて人間は悪との戦いの絶望的な状態から解放される. 信じて洗礼を受けた者は肉的存在に死んで霊的存在に移植されている. それによって罪と悪との戦いにおけるキリストの勝利にあずかって, 悪を克服できるのである. さらに霊的存在はキリストの霊である聖霊によって動かされる生命である. 善の実践はこうして聖霊の導きによって, 「アッバ, 父よ」 といえる父である神との関係を可能にするものである. そしてそれは善の実践の実りとして, 最後に神の似姿としての終末論的栄光を与えられることになる.
 
 悪の勢力はもはやキリストの勝利によって打ち破られ, その支配はなくなったというのがパウロの考え方であり, 人間のうちの二つの勢力の戦いに関する彼の考え方は, すでにキリストが達成した勝利の背景からみられなければならない. パウロは手紙のなかで繰り返しこの勝利に言及しながら, こうしてすでに先取りされている勝利に基づいて, キリスト者が悪を避け, それを棄てて, それに打ち勝つように勧めている (ロマ 12: 17; 16: 19; 1 コリ 10: 6; コロ 3: 5). この考え方は 1 ペトロ書 3: 11 にも現れる. 悪に対する戦いでは信仰者も世俗の権威に従うべきこと (ロマ 13: 1-7), 教会内での悪を正すべきこと (1 コリ 5: 12-13) が強調されている. ローマ書 13: 11-14 では, 「今」 がキリストの再臨直前の切迫した時であるとする励ましの言葉がみられる. エフェソ書 5: 16 および 6: 10-20 では, このような戦いが宇宙的規模で 「支配と権威, 暗闇の世界の支配者, 天にいる悪の諸霊」 との戦いであり, 終局の状況のなかで悪の力が増大する日に真理, 正義, 平和の福音, 信仰によって戦うよう強く勧められている.
 
 ヨハネ文書では悪はこの世の特徴である (ヨハ 7: 7; 1 ヨハ 5: 19). 光と暗闇, 真理と虚偽の対照で物事を捉える発想法がとられており, 悪は暗闇と虚偽とに一体化されている. 「わたしは世の光である. わたしに従う者は暗闇の中を歩かず, 命の光を持つ」 (ヨハ 8: 12). 「わたしの言葉にとどまるならば, あなたたちは本当にわたしの弟子である. あなたたちは真理を知り, 真理はあなたたちを自由にする」 (8: 31-32). ヨハネの思想は真理の認識とギリシア語の 「真理」 がもつ解放の意味を中心にして展開する. 悪は真理に敵対し, 本性的に歪めるものであり, 人格化される. 「悪魔は最初から人殺しであって, 真理をよりどころとしていない. 彼の内には真理がないからだ. 悪魔が偽りを言うときは, その本性から言っている」 (8: 44). 悪を克服するためには 「新しい掟」 を守らなくてはならない. この新しい掟は愛である (13: 34; 14: 15). しかし, 悪の勢力と同一視されているユダヤ人 (この世) はイエスとその弟子をこの新しい掟の実践のゆえに憎み, 迫害する (15: 18-25). だが, イエスの新しい掟を守ることによって父と子との間の創造的アガペー・愛 (聖霊) が与えられるから, 悪魔は事態を変えることができない(14: 30). 「あなたがたには世で苦難がある. しかし, 勇気を出しなさい. わたしは既に世に勝っている」 (16: 33). ヨハネ福音書において受難に向け, ユダヤ人のイエスへの反発の高まりを通して, 悪の勢力の邪悪と苦しみが極みに達する. しかしそれは, 三位一体の神の交わりの堅固さを弟子たちが受けることによって何一つ変えることができない.
 
 この 「新しい掟」 の考え方をヨハネの手紙は展開している. 正しい生き方は光のなかにいることをいい, それは 「互いに交わりを持つ」 (1 ヨハ 1: 7) こととされる. 「兄弟を憎む者は闇の中におり, 闇の中を歩み, 自分がどこへ行くかを知りません」 (1 ヨハ 2: 11). 「善を行う者は神に属する人であり, 悪を行う者は, 神を見たことのない人です」 (3 ヨハ 11).
 
 ヘブライ書は受洗者への成長の勧めである. 彼らは善悪を見分ける感覚を経験によって訓練され (5: 14), 信仰と忍耐によって約束されたものを目指し, 愛をもち, 希望をもち続け, 「新しい道」, つまり愛と善行に励む. また, 悪を避けて神に喜ばれる奉仕をすることが勧められている. ヤコブ書では神の言葉を聞くことは実践につながることが説かれ, 戦いや争いは人間内部の欲望から起こることが指摘されている. 不正に物質的な欲望に従うことは 「神の敵になる」 (4: 4) ことである. 1 ペトロ書では, 「自由な人として生活しなさい. しかし, その自由を, 悪事を覆い隠す手だてとせず, 神の僕として行動する」 (2: 16) ことが説かれて, 神との正しい関係が恵みであり, 恵みの良い管理者になることが勧められている. 黙示録は悪の勢力の支配の後に訪れるキリストの再臨のとき, 悪が一掃され, 試練と迫害を受けて信仰を守りぬき, 正しい生活をした者に与えられる至福を描くとともに, 七つの教会それぞれの倫理的状態の評価を行い, あるものは称賛し, 他のものに対しては, 終わりの日の訪れが早いことを述べて警告している.
 
【教理史】〔古代〕 初代教会は宣教に際して, すでに使徒時代に発生していたグノーシス主義の悪を物質に結びつける考え方に対処しなければならなかった. グノーシス主義によれば神と物質との間には, 完全なものと不完全なものとの絶対的な区別がある. 二者の間には中間的な造物主があり, その造り出した宇宙は造物主の本来の不完全性と劣性のゆえに歪められたものであり, そこに悪の原因があるとされた. グノーシス主義の影響のもとに, ウァレンティノス, サトルニロス, バシレイデス, マルキオン等は, 物質を造り出した造物主を考えたり, 物質を永遠から存在し, そこから悪が生まれたと考えたりする異端説を抱いた. さらにマニ教ゾロアスター教にキリスト教, 仏教の要素を取り入れて, 物質の世界, 暗黒を悪と考え, 光と暗闇の混然とした現世から, 物質を離れて, 純粋で精神的な光の世界への解放を救済だと教えた.
 
 護教家教父たちのグノーシス主義に対する烈しい論駁からわかるように, 彼らは以上のような悪と物質を同一視する思想のうちにキリスト教正統信仰とそのユニークな神概念を脅かす危機をはっきりとみていた. ユスティノス, エイレナイオス, ミルティアデス, メリトン, アンティオケイアのテオフィロスの著作, その他当時の膨大な反グノーシス主義文書は, この危険がいかに差し迫ったものと考えられていたかを示している.
 
 ギリシア教父のなかでは, まずタティアノスが, 「神は悪を決して造らなかった」, 人間こそが我々の自由意志の歪みによって 「不正を生んだ」 と述べている (『ギリシア人への言葉』 PG 6: 829). 4 世紀に急速に広まったマニ教に対する論駁はボストラのティトゥスとカイサレイアのバシレイオスによって代表される. バシレイオスは 「悪は生きた現実の実体ではなく, 徳に反対する魂の状態である」 (『創造の六日間についての講話』 4; PG 29: 37) とマニ教とグノーシス主義に対して反論する. 彼によれば, 悪が実在でありえないのは, 「その醜さが, 生き物のようにして持続しえず, 誰もそれが本当に存在しているのを目の当たりにみることができないからである」. まさに 「悪は善の欠如である」. ヨアンネス・クリュソストモスも悪の原理の永遠性を肯定することは, 冒瀆であると述べ, 悪は倒錯以外の何ものでもないと教えた.
 
 ラテン教父のなかでは, テルトゥリアヌスストア学派からのキリスト教への改宗者ヘルモゲネスの悪に関する所説に対する反論を公にして, 悪を物質に結びつけて物質が神によって創造されたものではないとする説を烈しく攻撃している.
 
 アウグスティヌスは悪の問題を本格的に詳細に論じ, 古典的といえるキリスト教的立場を打ち出した最初の人物である. マニ教に心酔した過去の背景とその哲学的・神学的思索の深さによって, 彼の議論の論旨は今日でも切迫感を感じさせるものをもっている. すでに 『カトリック教会の習俗とマニ教徒の習俗』 (De moribus ecclesiae catholicae et de moribus Manichaeorum) のなかで, 彼が取り上げたのは, 悪の起源と存在物の本質の問題である. 実はこの問題は, 彼を青年時代から改宗に至るまで悩ませ続けてきたものであった. アウグスティヌスによれば, 悪は実体だと教えるマニ教は誤っている. 存在するものは善である. 自分がその起源を探し求めた悪は, 実体ではない (『告白』 1, 7, 18 等). 悪とは, ある実体がそれに合致しない環境に置かれたときの偶有性である. あるいはそれは, 合致しない状態, 混乱の状態であり, それによって苦しみ, 堕落, 有害なものが生じる. このようにしてアウグスティヌスは新プラトン主義の哲学によってキリスト教の創造主・三位一体の神の信仰を展開する. 創造は物質にも及ぶ神の愛の表現であり, すべてのものは善であることを徹底させれば, 自然はすべて本来善であるから, 悪は自然に反するものである (『神の国』 11, 17; 『自由意志論』 3, 36). 悪とは, 本質, 本性からの堕落であり, それぞれの規模, 形態, 秩序から離れる度合いに応じて, その悪性を示し, 虚無への傾き, さらに頽廃, 背徳, 欠落, 強奪への傾きである. 悪はこうして善の欠如として, 善との弁証法的関係において存在しうる. つまり, 悪は欠如している善の証人である. もし仮に, 善が欠如している実存を完全に無に帰することがありうるならば, そのとき悪は自らも消滅せざるをえない (『神の国』 11, 17).
 
 アウグスティヌスは悪が二つに大別されると述べている. すなわち (1) 人間の行為と (2) 人間がそれによって苦しむものである. 前者は罪であり, 後者は罪の罰 (結果) である. 罪の罰として課せられる悪は, 正しく, 善いものであり, 人間を諭す神の憐れみから生まれたものである. アウグスティヌスは罪が原因でない人間の苦しみについて, それが, 浄めと強めのためであると述べている. それはさらに原罪の結果でもある. 物理的悪の領域に関しては, アウグスティヌスは世界が段階的存在構造によって成立しており, 完全度が下位の被造物から上位の被造物まで段階により異なり, 全体の均整美が保たれていると考えた. 「自分の自由意志によって善を行う人間のほうが, 必然性によって善であるものよりも, より良い存在である」 (『シンプリキアヌスへ』 Ad Simplicianum, 83, 2). 倫理的悪の起源を神に帰することはできない. それは, まず天使, それから人間が永遠不滅の善から離れる行為を行ったことから生じた. 罪の可能性は, 自分の本性を完成すべき自由意志をもつ有限の精神的存在を, 神が無から創造したところにある. しかし, それでも, 神がなぜ人間が実際に罪を犯すのを防がないのかという問題には根本的な答えがなされていない. 罪人の魂でも精神的でない存在に比べると, より高い尊厳をもっているとのみアウグスティヌスは答えている (『自由意志論』 3, 12, 16). 神は悪を良い目的のために使い, 悪を通して善を遂行する (『音楽論』 De musica, 6, 30). 悪は神が意志するものではないが, 神のより包括的な意志のなかで間接的に存在が許される.
 
 アウグスティヌスの同時代人, カッシアヌスは創世記 1: 3 に基づいて神に悪の創造を帰することができないと述べている. レオ 1 世もマニ教との論争のなかで悪は実体でなく, 善の欠如であると主張した. この観点から, グレゴリウス 1 世は, 「自分の本性をもって存在するものではないところの悪は, 神によって創造されたものではない」 (『大倫理書』 3, 9; PL 75: 607) と述べている. セビリャのイシドルスはその 『命題集』 の第 1 巻, 第 9 章で悪の起源の問題を論じている.
 
 〔中世〕 11 世紀, 神学教育が組織化されたのと時を同じくして, マニ教の復興が起こり, 神学的・哲学的問題として悪の本質が改めて問われた. カンタベリのアンセルムスは, アウグスティヌスの定義をより完璧なものにしようとして, 悪とは, あるべき善の欠如であると定義した. あるべきもの以外の善の欠如は, その本性を抑圧することも弱めることもないと彼は述べている. ドイツのルペルトゥスもこの考え方から出発して, 神に悪の根源を帰することができないとしている.
 
 トマス・アクイナスは, 『命題集注解』 1, 2, dist. 34-35, 『神学大全』I, q. 48-49, 『対異教徒大全』 第 3 巻の初め, 『悪について』 などで悪の問題を取り上げている. トマスにとっても, 悪は積極的な存在ではなく, 否定であり, その無存在 (〔ラ〕 non esse) の起源は, その否定性を意志によって肯定する者の悪意のうちにある. こうして悪は悪意によって生まれる. 一般的な意味の自然的悪に対して, 倫理的悪は理性的被造物 (人間) の行為のうちに認められる. 被造物は有限なものとして神に絶対的に依存して存在するが, 理性のなかには意志があり, 人間の存在を規定する理性は神との存在論的な関係によって特徴づけられている. 人間は, 理性のなかにある意志によって最高善, すなわち究極目的としての神に向かう. 理性的意志にとって神に向かうのは本性的に当然なことである. しかしこのような傾向は強制ではなく, 被造物のなかで意志は選択する自由をもっている. このような意志は働くことも働かないこともあるが, 正しい関係への決定は自由に行われなくてはならない. しかしこのような決定において, 意志が被造物の意志であるかぎり, その本性的限界によって誤る可能性をもっている. 意志は理性のうちにあって, その限りではある意味で神が住む, 神的な原理であるが, その行為への実現はつねに善の欠如の可能性を秘めている.
 
 本性と実存の間の間隙という見方はトマスの人間論の根本テーマである. 本質論からいうならば, 人間はうちに神を秘め, ある意味で神ということができる. しかし人間の実存からみれば, 人間は必然的に欠如的な存在とみなされる. トマスは神を存在という最も一般的な概念にあてはめているのではなく, 最も超越的な超越でありながら, 最も深く内在する内在である存在者と考え, すべての被造物が参与する存在と考えている (『神学大全』 I, q. 8, a. 1). この考え方を人間に適用すると, 神の内在は悪の可能性を除外しているようである. しかし人間は歴史のなかで神の像として置かれ, それを裏切る可能性をもっている. 人間は本質の観点から神の像であるが, しかし存在的にはそれに合致するように行動できない. 神のみが人間になりうる (『神学大全』 I, q. 86, a. 2). すべての被造物と同様にして人間にもそれ固有の創造的力が与えられている (『霊魂について』 a. 4, ad 7). 人間はその自由意志によって自分自身の主であるが, 理性的, 倫理的な欠陥がある. あるべき存在と現にある存在との差に人間の悲劇的状況がある. トマスは意志を理性に基礎づけていたから, 現実にある人間の悪への傾向と選択を善の誤認によるとしている. すべての行為は存在=善を志向するから, 行為はそのものとしては善であり, なぜそれが悪になりうるかとの問いに対して, 彼は欠如を含む被造物的本性から説明している. 行為はつねに目標に向かう. したがって行為は目的に秩序づけられている. 悪はこのような秩序づけの関係の混乱であり, 倫理的悪の場合, この混乱の原因は, 人間の理性が正しくその究極目的である最高善をみつけなかったことにある. 罪の罰の苦しみとしての悪について, トマスは秩序の破壊に原因があるとする. 罪は究極目的に結びつけられた秩序の破壊であるから, そこから生じる苦痛の原因は犯された秩序の究極にある原理, すなわち神である (『悪について』 q. 1, a. 5). 罪は罰の苦しみの原因ではなく, それによって人間が苦しみを受けるに値するようにするものである. 罰の苦しみの目的は, 罪によって乱された神の正義の秩序を償うことである. さらに, この考えには秩序の再建, 罪が乱した人間の理性と意志, その他の精神的能力の治癒, さらにもたらされた害の除去と償いが付け加えられている.
 
 オッカムは, その初期の極端な所説によって知られている. それによれば神は, そう望むならば, 人間に神を憎むようにという掟を与えることができる. このような極端な考えは, 倫理を神の意志にのみ根拠づけようとするものである. 被造物の存在が全面的に創造主・神の意志に依存すると考えたオッカムは, 倫理の規準を神の絶対的能力 (potentia absoluta) に置き, 人間に対して善あるいは悪を選ぶ自由を認めはしたが, 人間の善行が価値をもつのは, 神によって受け入れられることにあるとした.
 
 〔近代・現代思想〕 近代は, 中世の位階的宇宙像のなかで位置づけられた人間観が崩壊した結果として, 宇宙論的世界観から人間論的見方に変わった時代であり, すべての見方の中心が人間に置かれるようになったといわれる. 悪の問題の焦点が主として人間の道徳的責任との関係で論じられるようになったのは, このような時代精神の変化の結果であるといえよう. しかし, 宇宙論的悪の取り上げ方が近代以来, 完全に消え去ってしまったとはいえない. まず, ライプニツスピノザが直面した問題を背景にして, 宇宙における悪の問題を神義論のなかで論じている. 絶対的悪とは存在・善に置換できる神の対極にある虚無であり, 神に向かって秩序よく構成された我々の宇宙はそれぞれの位置の程度に応じて不完全性をもっている. これが宇宙論的な意味での悪である. しかし, それぞれの悪はより上部の段階でそれぞれ克服され, ついには宇宙全体では完全に克服される. 道徳的悪が問題になるのは, 人間においてであるが, この場合も, 人間の犯す悪はより高次元の善の観点で克服され, 宇宙全体は完璧な機構として働く, と考えられた. 啓蒙主義思想家はこれと大同小異の悪の捉え方をしている. しかし, ヴォルテールにとって, リスボンの地震による突然の不幸はこの考え方では説明できない物理的悪であり, なぜ突然苦しみを人間が体験しなければならないのかという, かつてのヨブの問題が再び浮上した.
 
 世界観が宇宙論的なものから人間論的なものへと変化した最初の結果は, 人間性 (natura humana) の性格との関係で, 社会・国家の起源に悪の起源の問題が取り上げられたことであろう. 人間にとっての悪は人間のうちにあるのだろうか, あるいは社会が悪の起源であるのだろうか. ホッブズにとって人間は本来善を求める者ではなく, 突然の死を恐れて行動する者である. 人間は積極的な価値を求めるのではなく, 自由は恐ろしい幻影である. ロックの立場は, 自然状態を闘争ではなく平和とみなし, 自然権と義務の存在を認める. しかし人間は自由の乱用を防ぐ保証が必要である. ルソーは自然と社会・文明の対比によって悪がいずれの側に起源をもつかという問題を取り扱っている. 自然は善であり, 徳は社会のなかでは実現できないものである. 善なる人間性は社会のなかで歪められる. 彼は人間性が歪められず, 力によって抑圧されない社会を描こうとした. 自然状態で人間は善であるが, そこから社会における市民的自由の段階に成長しなければならない. ルソーによれば, 社会の成立によって, 初めて人間は自由で理性的な者となる.
 
 カントは悪の問題を人間の道徳性にのみ結びつけてみるようになる. 悪は人間の自由と理性の領域における問題である. つまり, それは人間による自由の使用と乱用の問題である. 一方では理性による先天的道徳規準の認識と他方では歴史における人間の自由の展開の歴史のなかで, カントは悪の問題に取り組んだのである. 彼にとって悪とは, 自由の展開の歴史における人間による自由の乱用によって起こされた, 人間における非人間性である. カントにおいて悪の意味をめぐる, 近代の人間論的な世界観が極まった観がある.
 
 K. マルクスフロイトはそれぞれ異なった立場からホッブズ, カントとともに人間が自らのうちに自分を破壊する力をもっていることを認め, それを克服する手段を異なった方法にみいだそうとしたといえる. マルクスは悪→非人間性→自己破壊という図式を疎外の概念で捉え, 悪を経験的自然における永遠の自然に対する唯一のものとみなした. 悪はこうして自然に対する反自然であり, 社会の成立とその構造から発生するのである. こうしてマルクスは歴史の終末に非人間性である疎外 (悪) が止揚される理想人間 (社会) を想定する. フロイトも人間性を歪める非人間性である悪からの解放を目指し, 特にそれを人間の欲求を抑圧する宗教的タブーからの解放というテーマのもとに取り上げたといえよう. つまり, 彼は人間性を歪めている抑圧のからくりを経済機構・制度だけに限らず, もっと複雑で, 内面に及ぶ仕組みであると考え, そのからんだ糸を解きほぐし, 解説する心理分析によって, 非人間性から人間が解放されることを目指したのである.
 
 非宇宙論的・人間論的な捉え方はさらに実存主義思想のさまざまなタイプのなかにみいだされる. ハイデガーにとって, 悪は人間における非本来性・非真実性であり, そこからの本来性への回帰が重要な意味をもつ. サルトル, A. カミュにとって, 実存そのものが不条理である. 人間は生まれたときからその不条理である悪に宿命づけられている. 彼らにとっては, 世界そのものが人間にとっての悪なのである. カミュはこの不条理を人間の悲劇の主要テーマであると考える. サルトルはそれを社会的アンガージュマンによって克服しようとした.
 
 T. H. ハクスリらは, 社会的ダーウィン主義 (社会進化論) によって社会における悪が解消されると考えた. ニーチェも社会的進化論の影響を受けて, 悪の問題の意識がキリスト教によってもたらされた束縛の結果生じたのであり, 「神の死」 が悪の問題の解決と新しい英雄主義的道徳の誕生を意味すると考えた. テイヤール・ド・シャルダンはキリスト教とダーウィン主義の綜合を目指し, 楽観主義的宇宙観を作り上げた. 悪を軽視したわけではないが, 人間の自由意志に由来するものをも含めて悪は宇宙の完成の日, 影としての役割を果たすべきものである. これに対して, 宇宙の目的性を否定するモノ (Jacques Lucien Monod, 1910-76) の考え方はカントの外界自体の認識の不可能性の考え方を一層深めて, 宇宙の無意味性を強調したショーペンハウアーの考え方の復活であるとみることができる. 彼にとって宇宙は偶然に生まれた目的性のない世界である. ここにおいて善悪の問題は無効になる. 以上のように, 悪の問題は再びその根底で人間の自由の領域と宇宙が, 共に綜合的に目的性と意義の問題に結びついていることが認識されるようになったといえよう.
 
さらに, 現在, 世界は地球化, 宇宙化, 社会化を通しての全体化 (〔英〕 totalization) の段階に入っており, 技術革新のテンポの増大によって機能化の過程が進んでいる. 人間の自由の問題は社会との関連で, さらには地球全体, 宇宙全体の関連でみられている. 悪の問題も, 個人レベルではなく, 以上のレベルでますます意識されるようになっている. 反面, これも全体化の一部ではあるが, 機能化に伴って, 人々はその人格性を奪われ, 無名化される危機に直面している. ホルクハイマー, アドルノ, マルクーゼの貢献は, このような複雑な社会が無名化によって非人間化という悪をもたらしうること, さらに同じ無名化によって悪の根源がわからなくなってしまうことを明らかにした点にある.
 
 アウシュヴィッツの例にみられるように, 人間の自由から生まれる悪は巨大で, 宇宙的規模をもつほどになりうるのであり, 核問題や自然破壊にみられるように, 悪の問題の宇宙論的背景がますますはっきりとしてきている. 悪は科学の進歩によって解消するのではなく, 人間の知性の発達は悪の問題を巨大化するのである.
 
【教理】神がすべてのもの, 見えるものと見えざるものの創造主であることは各種の信条によって明らかにされている. したがって, 神と並べられうるような絶対悪の存在は, 認められない. カタリ派に対して第 4 ラテラノ公会議は, 「神は, その全能の力によって, 時の始めに, すべての霊的ならびに物質的なものを無から造った. ……悪魔およびその他の悪霊どもは, 神によって本性上は善いものとして創造されたが, 自分たちの働きで悪いものとなった」 (DS 800) と宣言した. フィレンツェ公会議が出したヤコブ派 (ヤコブ教会) との合同大勅書でも, 「すべてのものの本質は, 本質的に善であるから, 本質的な悪は存在しない」 と述べられている (DS 1333).
 
 第 1 ヴァティカン公会議は, 第 4 ラテラノ公会議を確認する形で, 神の創造の意味を説いている (DS 3002). レオ 13 世は, 回勅 『リベルタス・プラエスタンティッシムム』 (1888) のなかで, 人間は理性の掟に従って正しいことを行い, 罪を避けるよう義務づけられている (DS 3247) と述べ, 人定法によって公共善のために悪が黙認されることがあっても, 「決して悪そのものを承認し, それを望んではならない」 (DS 3251) と強調している. それは 「悪がもともと善の欠如であって, 立法者が全力を尽くして望み守らなければならない公共善に反するものだからである」. さらに回勅はトマス・アクイナスの言葉(『神学大全』 I, q. 19, a. 3, ad. 3) を引用して次のように結論する. 「神はこの世に悪が存在することを許したが, 『悪が行われるのを決意せず, 行われないことも決意せず, 悪が行われることを許すことを決意した. そしてこれは善いことである』. トマス・アクイナスのこの文章に, 悪の黙認についての教えが簡潔にまとめられている」 (DS 3251). 第 2 ヴァティカン公会議の 『現代世界憲章』 は現代社会の急激な変化と不均衡のなかで人類の大きな疑問に答えるため, まずそれが 「人間の心の中に根を張っている根本的な不均衡」 (10 項) に由来するとして, ローマ書 7: 14 を引用して新しい人間になる人間の召命を説いている. 「人間は神によって義の状態に置かれたにもかかわらず, 悪霊に誘われて, 歴史の初めからその自由を濫用し, 神に逆らい, 自分の目的を神以外のところで達成しようと欲した. 神を知りながら, 神としてその栄光たたえることもなかった. その心は鈍く暗くなり, 造り主よりもむしろ造られた物に仕えた. 神の啓示によってわれわれに知らされていることは, まさに経験とも一致する. 実際, 人間は自分の内心をみつめるとき, 自分が悪にも走りやすく, 自分の善なる造り主から来ることはありえない多種多様な悪に浸っていることを発見する. 人間は, しばしば神を自分の根源として認めることを拒否し, 自分の究極目的に向けられているはずの秩序を破壊すると同時に, 自分自身と他者および全被造物との間にある自らの完全な調和を破った. したがって, 人間は自己分裂を来している. こうして人間の全生活は, 個人的にも集団的にも, 善と悪, 光と闇の間における劇的な戦いの相様を呈している. さらに人間は, 自力で悪の攻撃を効果的に退けることができないことに気づき, 各自が鎖で縛られているように感じている. しかし, 主ご自身が来られて, 人間を内部から新たにし, 人間を罪への隷属状態に保っていた 『この世の支配者』 (ヨハ 12: 31) を追い出すことによって人間を自由にし, かつ力づけたのであった」 (13 項).
 
 さらに神が物質の創造主であり, 霊魂と肉体からなる人格の復活によるこの世の再生が目指されていることが指摘されている. 「人間の尊厳そのものが, 人間が肉体において神の栄光をたたえ, 自らの心の邪悪な傾きに肉体が仕えるままにならないように求める」 (14 項).
 
【神学的解明】〔悪の本質〕 今日では悪の問題が社会悪の側面から主として取り上げられているが, それが指す現実は多岐であるため, また, 歴史における悪についての意識の変遷のため, 一様な解答が困難な問題となっている. キリスト教的見地からの解答も, そのそれぞれの側面について異なる具体的なものにならなくてはならない. 究極的には, 悪は 「不法の秘密の力」 (2 テサ 2: 7) である. しかし 2 テサロニケ書 2: 8 にみられるように, キリスト教の宣教の核心は, 神がイエス・キリストによって, 悪の諸力に打ち勝つということであり, 真理と正義と愛による神の勝利である. キリストの死と復活によって実現されるこの終末的・決定的・不可逆的勝利に基づいて, 人間が悪を最終的に克服することは, 神の恩恵によってのみ可能であり, 神に信頼し希望する対象である (黙 22: 17, 20).
 
 神学の伝統とそれに結びつけられた形而上学において悪は一貫して, 存在 (善) の欠如として捉えられてきた. しかし欠如は積極的な意味での概念ではなく, 聖書の象徴的表現の記号化である. 神学伝統は, 悪をあるべき善の欠如として理解することによって実体的な悪を神に対比せしめる二元論ばかりでなく, それを神に由来させる一元論をも避けようとした. しかしアウグスティヌスも, 善の欠如としての悪を直ちに悪意に結びつけている. つまり神学的に問題になるのは, 形而上学的欠如そのものよりも, その欠如の原因とそれによって惹起される神との関係の歪み・混乱なのである. したがって, 神学的な意味で本来の悪は, 神から自由を与えられた被造物がその自由によって自らの被造性を認めないことから生じる不義, 悪性, 混乱である. 被造物が神以外にその存在を根拠づけ, みいだそうとするところに, その空しさがあらわになる. ここに反乱としての悪の異常な力が沸き起こってくる. K. バルトは単なる虚無 (〔独〕 Nichts) と悪意によって空しさから起こるもの (Nichtigkeit) を区別して, 悪が空しさ, つまり, 被造物の歪んだ意志決定に由来するとした. 存在と無との間に第三のカテゴリーを想定しうるかどうかの問題は別にして, 悪とは神の否定である. それはイエス・キリストにおいて示された創造と救済の意志の否定である. かかる否定として悪は自我の過大評価であり, 同時にそれゆえに自ら空しいことをさらけ出す. 悪は, 神の神である本質の否定である. もちろん, 人間が悪を選ぶときに, 必ずしも明白に神を否定するなどとは考えていない. 普通, 罪は, 日常の人間関係において起こる愛の利己的な拒否として犯される. しかし, そのとき人間は, 絶対にしてはならないことをすると知っているから, その行為は結局, 絶対者である神を拒否することになるのである. 神の本質はまず愛であるから, それは愛の反対原理として愛を否定する, 愛の欠如から憎しみになる. ここに自己愛の倒錯がある. それは幻想の自我存在に向かいながら, それが根源的に無であるから不満であり, 自己を憎む自己嫌悪である. しかも神の神としての存在を否定することによって, 悪は恩恵の欠如という特殊な欠如であり, 被造的自由がその目標に達することを自ら不可能にする不毛性である. 悪はそのものとして創造的ではなく, すでに地獄である. それは神に対する否定であるから, 自ら神の否定をもたらす神の審判であり, 被造的自由が自ら選んだ神の審判である. ここにキリスト教的見地から本来的悪が罪である所以がある. 悪は自ら神のようになる幻想のゆえに, 被造物としての自己存在の全面的な倒錯であり, 根源的な自己矛盾である. それはその否定において歪んだもの, 分裂的なものであり, 全面的な疎外, 不条理, 自己解体, 破壊, 混乱である. 主の祈りの末尾の部分はこのようなものに対する実存的恐怖感をもって再認識されなければならない. 悪は, このようにして, その所業において不条理で狂気を帯びた否定の上に, 自己存在を確立しようとして努力するはかない試みである. だが, そのはかなさと空しさの根源のゆえに, 神の創造の結果である宇宙の秩序を破壊し, 混乱をもたらそうとする. そのような絶望的な状況のなかから, 悪の執拗な力が現実のものとして浮かび上がってくる. このような悪の実存的な力を現代の文学と思想はよく捉えているといえる.
 
 〔救済史と悪〕 このような悪の力はさらに 20 世紀においては, アウシュヴィッツなどの大量殺戮と世界的な規模の戦争を通して現代人には身近なものとなった. 確かに, このような性格をもつ悪に対しては, 父の独り子である神が受肉し, キリストとして罪を除いて我々と一つになり, 我々のために十字架の死に至るまでの受難に耐えて, 復活の栄光を得て悪に打ち勝つ以外に, それを克服する方法はなかったのである. キリストの十字架上の死と復活は, 被造物の自由の混乱によってもたらされた宇宙の二義的な状態のなかで, 神の創造の意志によるその確認の肯定と悪に対する否定の審判である. 二義的な状況のなかで神はその初志を貫き通す. この観点から, まだ完成の段階に達していない時の流れのうちにある宇宙は, 人間にとって救済を示すしるしであると同時に, キリストから離れている状況の側面からは悪のしるしである. ヨハネがこの世を悪と同一視したのは, この意味においてである. しかしそれはキリストの十字架上の死を通して, 苦しみと死という罪の結果の現実がすでに克服されていることを浮き彫りにする, 歴史的なダイナミズムを成り立たせる役割を果たしている. その過程で悪の絶望的性格がより鮮明になっていく.
 
 世界と歴史は, このような絶望と恐怖のなかにおける神の救いと再生の栄光の高まりをいやがうえにも示し, より現実のものとしていく. 神の本質である愛は, 人間になり, 人間として十字架の死によって悪の不条理を克服する. キリストの十字架の死は, 神の愛が悪の克服のために不条理の逆説を受け入れたことを意味する. 人間イエスの死において神が死ぬことによって, 悪は究極的に打ち砕かれた. 人間と一体化し, 人間になりきった, 秘められた神の愛を捉えることができなかったがゆえに, 悪は根本的に打破された. キリストの復活は悪の現実を解消するのではなく, その力が神の苦しみであり, 救う愛がいかに創造的であるかをその逆説を通して示している. 悪の力に対して, キリストを通して示された神の愛はより力強く, 混乱を乗り越えて一層ふんだんに恩恵を注ぐが, その根拠はイエスの十字架の死である.
 
 伝統的神学において神は悪を黙認し, それをより大きな善の計画のなかに組み入れるといわれる. それは神の愛の表現であるとされる. 十字架はキリストにおける神の愛の勝利であるが, その愛の表現が十字架の苦しみであることに注意する必要がある. 悪はその本来の意味において被造物の限界づけられた自由がもたらす可能性の, 一つの実現形態である. キリストにおける神・人の一体性の教理を援用するならば, キリストにおいて神は, 死に至るまでその無限の意志によって積極的に人間として苦しみ死んだといえる. 神が自分を空しくしたということ (ケノーシス) は, 人間の虚無化とは全く違う. 神のケノーシスは同時にその限りない存在, 善, 愛, 正義の充満の発動であり, これによってある意味で神は人間として, 人間とともに悪 (有限者の自由の誤った決定, その歪み, 悪意, 虚無に向かう自己の存在の幻想) を耐え, 勝利することによって, ちょうど創造のときのように, 自己の完全性を確認したのである.
 
 神は天上で不変・静止的に座して, 下界を眺めている神ではなく, 被造物に自由を許し, その否定的結果である悪に対しても, 積極的に関わり, 自己の無限の自由の対象とする神であり, その積極的な関与を通して神の本質・愛が示される. しかも受難に代表される悪に耐える神の行為は, 実は受動的ではなく, 積極的な戦いである. それは神の自由に代表される自由の創造性と価値の立証である. その立証において神の審判が行われ, 正義が発揮される. 共観福音書ではイエスは悪の勢力に敢然と立ち向かい, 最後の試練を勝ち抜く勝利者として描かれている. ヨハネ福音書では, イエスは, すでに初めから神的存在である勝利者として十字架に向かう. 神はその自由によって世界を創造した際, 被造物の内在的な自由に含まれた, 空しさに向かう可能性すらも排除せず, その可能性が被造物の自由によって悪として実現した際も, それを外から絶対者として排除することなく, 被造物の自由を通して, 被造物との死に至るまでの連帯を通して創造の秩序を内部から救済の秩序にしたのである.
 
 〔キリスト者の実践生活〕 現代において神は存在するか否かの神義論の問題の一部として, 無垢な人々の殺戮, 苦しみ, 病気, 不幸, 天災, 災害, 自然の無常な仕打ちなどが神存在を正当化できない不条理として提出される. しかし反面, 今日ほど自然破壊が意識され, 一見人間の自由とは無関係な領域が, 人間の歴史の流れにおける有限な認識と自由の複雑な連鎖のなかで関連づけられている時代はない. 自然, 外面における否定性, 限界性は人間の自由との関係で悪となり, あるいは悪 (苦しみ等) として意識される. キリスト教信仰は, 物質界, 人間社会, 個人の悪を含めて, 悪に対してただ受身に耐えるのではなく, イエスが十字架に向かったのと同じ態度をもって, 身を慎んで目を覚まし, 信仰にしっかり踏みとどまって対決する (1 コリ 16: 13 参照). 我々は, これらすべてのことにおいて, 我々を愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めている (ロマ 8: 39 参照). キリスト教信仰は世がすでに克服されたことを知っている (1 ヨハ 5: 4). この勝利に支えられて, キリスト者はあらゆる意味の悪に抵抗し, 戦い, 現在では挫折し, 苦しみと悲劇に終わっても, 最終的に復活の勝利にあやかることができるのを知っている. キリスト者の倫理は復活の神秘によって悪を克服することを目的にする. 教会は救いの根源的秘跡として悪と不正に対して戦うよう勇気づけ, 愛と正義と平和の人類社会を建設することを目指さなければならない. そのためには, 旅する過程で, 教会はつねにその内部に目を向け, 自ら改革し, 刷新して, 根源的秘跡として悪と罪に対するキリストの勝利を世界に示す神の民とならなくてはならない.
 
(高柳俊一)
 
【哲学的解明】人間が有害な障害ないし好ましくない問題として直面するさまざまのことがらを 「悪」 と総称する.
 
 悪は世界文学の大きなテーマであり, 哲学や宗教にとってもとりわけ重要な問題である. 悪は非常に多面的なものであり, その扱い方もさまざまである. 主に個人の悪を問題にする者もあれば, もっぱら社会のそれを問題にする者もある. 自然的な苦しみ, 社会の不正な構造, 個人の道徳的悪など, いずれも重要な問題となるが, どれを特に重視するかによって論じ方は大きく異なってくる. また, 世俗的場面ないし現実世界の枠内で検討するか, 超越的な視野のもとで論じるかによっても大きな相違が出てくる. さらに, 悪の問題を理論的に検討するか, 悪との実践的対決を通じて問題を解決しようとするかによって, いま一つの根本的な相違が生じる.
 
【理論的検討と実践的対決】理論的検討と実践的対決は, 悪の問題に関しても当面別種のものと考えられるが, 相互に相容れないのではなく, むしろ相補的で互いに必要不可欠なものといえる. 場合によっては, 一方の方向のみに力を注がなければならない状況もありうるが, 一般的には, 悪の本質とその存在理由についての正しい理論的理解は, 悪との実践的対決を強く促すはずであり, また真剣に悪との実践的対決を行っている人は, 何らかの仕方でそれについての理論的理解を求めるはずである. そうでなければ, 悪との戦いは本能的なレベルにとどまり, もっと非人間的な方法を用いることでかえって容易に大きな悪を招くという危険にさらされるであろう.
 
【問題規定】そもそも悪の問題は, 人が, 悪いものとして自然に否認するようなことがらをしばしば経験することから生じる. その際, 単なる趣味の場合とは違って,人は自分の経験を主観的な問題として片付けることができず, そのことがらが真に悪いと考えるのである. だがこの考えの裏には, 存在するものが必ず善いものであり, 人がいかなるものをも善いものとして是認できるはずだという確信が前提とされている. すなわち, 実際に人が種々のことがらを悪いものとして経験するという事実と, 存在するいかなるものも善いものでなければならないという原則とが, 問題の二つの極としてあり, 両者を共に認めることで初めて悪の問題の解決への道が開かれてくる. したがって, 悪いものがあるという事実だけを認め, 存在が善でなければならないという原則を否定してしまう極端な悲観主義も, また, 存在が善でなければならないという原則を認め, 悪いものの存在を無視してしまう極端な楽観主義も真の解決にはならない.
 
【悪の問題と神の存在】悪の経験は人類に普遍的な現象であり, 特定の世界観やイデオロギーに限られるものではない. したがって, 悪の問題は, 神の存在の是認ないし否認によって直ちに解決されるようなものではない. もちろん悪と神との関係は古来大きな問題であり, 神の存在を認める人は当然, 善であり全能である神がどうして自分が造り支配する世界に, 人が悪として経験する多くのものの存在を許すのだろうかと問うであろう. しかし, だからといって, 神が存在しないならば悪の問題がなくなるというわけではない. 悪それ自体が問題になるからこそ, 悪と神との関係も問題となるのである. もし人の経験する悪それ自体が問題でないとすれば, そのようなものの存在を許す神についても何の問題も起こらないはずである.
 
【存在の善性と悪】たとえ神の存在を否定しても, 存在が善でなければならないということをも否定しないかぎり, 悪の根本的な問題は依然として未解決のままに残る. しかるに, この存在と善との必然的連関を否定する充分な根拠はもちえない. そもそも悪の経験さえも, 存在と善との連関を否定する充分な根拠を与えない. 健康のために注射の痛みを自ら進んで許すような場合や, 後になって初めて, 他人のなした悪が許容さるべき充分な理由をもっていたことを知るという経験も珍しくない. 我々は, 正当な理由があって許される悪を, 何らかの仕方で存在の善性にあずかるものとしてよしとする. さらに, 世界について極めて限られた知識しか有していない我々は, いかなる悪についても, 絶対にそれを許す理由がないと断言するだけの資格を有してはいない. したがって, 我々の経験するいかなる悪も, 存在と善との必然的連関を決定的に否定する根拠を与えてはくれない.
 
 上述の結論は, 極めて消極的なものではあるが, それでも, 存在の普遍的善性について人間が自然にもっている深い確信を, 理にかなったものとして保持することを可能にし, 多くの悪の理由を具体的に知らない我々に, 神の存在を認め続けることを可能とする. あらゆる悪の理由を具体的に知って初めて神を承認しようとする人がいるが, それは明らかに不当な要請である. 反対に, 悪の問題について語りうるのは, 存在と善との必然的な連関は否定しえないという消極的な結論だけだ, という主張もしばしばなされるが, これもまた不当なものである. というのも, 悪の問題をより積極的に検討することによって, 人は多くの重要なことを学ぶことができるからである.
 
【悪の本質についての積極的検討】悪はしばしば, まさに有害なものとして強く意識され問題にされる. 例えば多くの犠牲者を出した天災, 多くの人々を不当に苦しめる政治, 残酷な犯罪などに出会ったときには, どうしてそのような悪が存在するのかが問題とされる. しかしよく考えてみれば, 有害なものは悪い結果をもたらすからこそ悪とされるのであって, 結果との関係を考慮しないのであれば, それらはそれ自体としては悪といえない. このような, 他のものに害を与えることによって悪とされる有害なものよりも, むしろまず, それ自体として悪いものこそ, よく検討される必要があり, それ自体悪であるものの本質とその存在理由とができるだけ明らかにされねばならない.
 
 〔人工物の悪の本質〕 人工的な, 例えばある自動車やある道を悪いと考えるのは, それがその人工物の本質にふさわしくない場合である. しかし, そのためには本質それ自体が存在し持続していることが条件となる. 例えば悪い道はあくまで道でなければならず, もはや道とはいえないものは悪い道でもありえない. さて, 悪い道とは例えば, 石が多すぎて路面が石ころだらけであるもの, 反対に石が足りなくてところどころに穴ができているものなどが考えられる. これらの場合の悪の具体的な理由には, 「あり余る」 と 「足りない」 との根本的な相違がみいだされるように思われる. しかし, 結局, いずれの場合においてもその道は, 道のあるべき存在形態を呈していないために悪い道であるということになろう. したがって, このような悪は, それ自体として積極的に存在するものでも, 単に何ものかの不在でもなく, むしろ人工物の本質によって要求されている完全性の欠如であるといえる. この場合に欠如しているものは, 人工物の単なる存在のためには必要ではないが, 人工物がその本質にふさわしく存在するために必要である. 言い換えれば, ここでの悪とは, そのものの本質ないし本性の要求がふさわしく満たされていないということになる.
 
 〔動植物の悪の本質〕 人工物の本質は人工的であり, その要求もまた人工的なものにすぎないことから, そこにみいだされる悪は, 人工物を使用する人間との関係においてのみ問題になるにすぎない. これとは異なり, 生物の本性は自然的なものであり, その本性による要求もまた自然的なものである. あるものの自然的な要求がふさわしく満たされないということがあれば, それこそそのもの自体の悪といえよう. もちろん生物の種類によって自然的要求は違っており, 人間の場合にはそれは必ずしも生物的レベルのものだけではない. しかし, いずれにせよ, そのものの自然的要求がふさわしく満たされないときの状態を人は悪い状態と考える.
 
 すべての生物は, 自分の存在を保存し, 自分の本性にふさわしく豊かに生きることを求めている. それを妨げる病気や死は, 生物にとっての悪とみなすことができる. しかし, より詳細にみれば, そのような悪は全く相対的なものにすぎない. 現実の生物は, 明らかに, 他のものに依存して自らの可能性を実現していくものであり, したがって, 豊かに生きようとする生物の自然的要求は無条件的ではなく, 具体的状況が許すかぎりという条件を含むものである. そして人間以外の動植物においてはこの条件つきの要求は必ず満たされている. あらゆる生物は, その具体的状況に即応して, 可能なかぎり豊かに生きているのである. 特定の具体的状況のなかに生きる生物にとって, その時々に別の具体的状況が存在するなどということは不可能である. 具体的状況とは別の可能性について何も知らない動植物にとっては, 別の可能性が実現できないから苦しむということはない. 動植物は, 具体的状況においてただ, 自分のためになるものを自然に求め, 害になるものを自然に避けようとするだけである. 不当に人間の心理を通して他の生物を擬人的にみるのでないかぎり, 動植物の世界には絶対的な悪はみいだされないであろう.
 
 〔人間の悪の本質〕 人間も他の生物と同じく, 生きるためにも, 自分の新しい可能性を実現するためにも, 他のものに依存せざるをえない. しかし理性的存在者であるかぎりの人間には, 他の生物にない固有の可能性があるとともに, 固有の問題もある. 人間は, 周囲の世界をある程度変更させ, 自分のためによりよい状況を人工的に作り出すことができる. もとより人間にできることには限界があり, 一層豊かに生きるために意識的に求めたものごとが脅かされたり妨げられたりすることもしばしばある. そうした場合, 人間は, はっきりと意識された自分の欲求と, 現実との食い違いに直面して苦しむ. それは, 人間が欠如を欠如として意識するからである.
 
 さらに, 豊かに生きようとする人間の自然的要求は, 単に生物的なレベルのものではなく, まさに人間的なものであり, 人間は必然的に他人との人間的な交わりを求める. しかし現実の人間同士の交わりは, 極めて不完全なものであり, 多くの苦しみの原因となる. この不完全性には単に人間の自然的限界による場合も, 自他の罪によって作られた苦しみの場合もあるが, この場合の悪の本質も, 求められた善が充分に得られないことにある.
 
 人間には, 人間としての最も深い要求, すなわち理性的存在者にふさわしく自分の自由を使うように, という要求が存する. 言い換えれば, 人間は, 神が良心を通じて知らせることを自由に引き受けるように召されている. しかし, このことには, 良心の声に従うことを拒否する可能性が最初から含まれている. 良心の声を拒否することにより, 人間からは理性的存在者として有すはずの倫理的善性が失われ, そうした人がまさに悪い人間となる. もちろん, この悪にもさまざまの程度の差があり, とりわけ, 正しい状態に戻る可能性がまだ残る場合と, もはやそのような可能性がない場合とが区別される. しかし, いかなる場合にも, 倫理的悪の本質は, 人間が良心の声に従わず, 自分の倫理的義務を果たさなかったことにある. してはならないことをした場合, すべきことをしなかった場合のいずれにおいても, 良心の声に従うことによってしか得られない理性的存在者としての根本的善性が欠如しているのである. 倫理的義務は無条件的なものであるからこそ, この欠如は最も厳密な意味で 「あるべきものの欠如」 であり, 最も厳密な意味での悪である.
 
【悪の存在理由】悪それ自体は望まれもせず是認されることもないが, 善との関係において, 限定された仕方で悪の存在を許すということは可能である. すなわち, ある善が必然的に何らかの悪の可能性と連関している場合に, 我々は, その善のために悪の可能性を許すことができる. このことは, 人工物について考えてみれば明らかである. 人工物を造る者は, 失敗しないという絶対的な保証をもたないし, よくできた人工物も時間がたてば故障したり壊れたりする. しかし人間は, そうしたことを承知しつつも, 人工物によって得られる善のために, 避けられない悪の可能性を許す. それを絶対に許さなければ, 我々は人工物の製造を止め, 人工物によって得られる善を諦めざるをえなくなるからである.
 
 自然物についても同様なことがいえる. 生物が存在しなければ, 生物がさらされているすべての悪も存在しないだろう. しかし, そうなれば, 生物の存在という善性がこの世に存在しないことになる. それゆえ, 生物の存在という善を望むなら, それと必然的に連関する諸悪の可能性をも許すことが正当であろう.
 
 人間の場合にも, 理性的認識がなければ, 人間固有の苦しみがないだろうということは明らかである. しかし理性なしには人間はまさに人間という意味において生きることができない. また, 人は, 苦しみや悪を, 絶対にあってはならないものとして無条件に退けているわけではなく, 甘んじて引き受けるための理由があれば, それをよしとすることができる. 自ら進んで健康を求めて注射を受ける人や, 他人のために献血する人は, 苦痛を受ける理由があると考え, 痛みをよしとする. このことは, さらに, 死に関してさえいえる. 格別に重大な善のために自ら進んで死の危険を冒す人がいるからである. そして一般に人間が, 苦しむ可能性と死の必然性にもかかわらず人間として生きることを望んでいるとすれば, 我々はそれらの悪の可能性を許しているのである.
 
 自由に関しても同様なことがいえる. 自由が存在しなければ, 倫理的悪も存在せず, 自他の罪による多くの余計な苦しみもまた存在しないであろう. しかるに, 自由もまた人間として存在するためには必要であり, 自由があればあるほど, それを悪用したときの悪は恐ろしいが, 善用したときの善もまたそれだけ大きい. 特に, 決定的な選択を行う自由には, 決定的に失敗するという可能性が含まれるが, 決定的に善を選び, 永久に真の幸福にあずかる素晴らしい可能性も含まれる.
 
 現実世界に存在するものはすべて相対的なものであり, 人間も相対的存在である. それらのなかでも人間は, 特に優れたものであるからこそ, 大きな悪にさらされている. 人間が存在したほうがよい, ないしは存在しないほうがよいとは端的にいうことができない. 人間の存在はただ, 自由に望まれうるものであり, 実際に神によって望まれているのである. 人間として存在している我々は, この事実を認め, 悪の危険を警戒しながら, 存在の善性を是認することができるし, そうすべきである.
 
【存在の是認と悪との戦い】存在を善いものとして是認することは必ずしも, 自他の諸悪に対して何もせず見過ごすということではない. というのも, 現在の存在のなかにはまだ実現されていない多くの可能性が含まれており, 人間はもっとよい可能性の実現のために努力することができるからである. したがって, 実現すべきよりよい可能性のために努力していない人は, 存在の善性を真に是認していないことになる. 存在を真に善いものとして是認する人は, つねに悪と戦い, 希求されてはいるがまだ実現されていない善の実現のために, できるだけ努力しなければならない. 悪は, その除去に余りにも大きな善の実現を断念せねばならない場合にのみ許すべきものである. しかもそのような場合においても, 悪自体はあくまで善の実現のために許されるものにすぎず, 決して端的によしとされるのではない.
 
 病気などのような, 人間の被る諸悪は, 人間を悪人にせず, かえってさらに優れた人物になるためのきっかけともなりうる. しかし, 人間は自然に喜びを求め, 苦しみを避けようとするものであるから, そのような悪も, それ自体としては人間の願望に一致しないものであり, 正当な手段を用いてそのような悪を避けたり除去したりすることは, 正しいことである. また, この世のすべての悪は, 時間とともに過ぎ去ってしまうものであるから, 永久に存続するものの立場からは相対化されなければならない. しかし時間的悪も人間を悩ますものであり, できるかぎりその排除を求めるべきものである. 相対的なものの相対性を忘れる者は, 悪の問題を解決しえないものにしてしまうが, 他方では, 相対的なものがその相対性にもかかわらず有している価値を否定する人は, 悪の問題を真剣に考えていないのである.
 
(F. ペレス)
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(高柳俊一, F. ペレス)



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